毒親に苦しむ39歳の子育て模索〜対策・解決方法はありますか?〜

子供ができたのをきっかけに、自分の親が毒親であることに気がつきました。「負の連鎖」を断ち切るため、どうしたらいいのか、悩み続けています。

カウンセリング

久しぶりにカウンセリングに行ってきた。

 

お盆を挟んだので1ヶ月ぶり。

 

僕はもう、薬なしでは生けていけない状態になっている。

 

動悸に苦しめられる。

 

夜中に目が覚めて眠れなくなる。

 

気が落ち込み、常に眠い。

 

でも夜はぐっすり眠れない。

 

 

医者は

「死にたくなるときはあるか?」

と聞いてきた。

 

僕はこの医者の前だとすぐに泣いてしまう。

 

僕は泣くのを我慢しながらも泣いてしまい、少し落ち着いてから答えた。

 

「気がつくと自殺する場所を考えてしまいます。どこで自殺したら親に仕返しできるだろうと考えます」

 

僕が考えていたのは、実家だった。

 

日中のうちに油を撒いておき、両親が寝付いたら火をつけるのだ。

 

ただ、部屋や布団に油を撒いたら、さすがに火をつける前に気付かれてしまうだろうな、というのが悩みだった。

 

医者は

「ちょっとうつっぽいな」と宣告した。

 

僕はショックだった。

 

でもどうすることもできなかった。

 

また薬が増やされた。

 

僕はこの投薬地獄から、いつになったら抜け出せるのか?

 

親が死ぬまで待つしかないのか?

 

先の見えない生活が続く。

フラッシュバック

職業訓練校に通う道すがらだった。

 

山形7中を通り過ぎ、橋を渡ったところだった。

 

前の軽自動車が、タバコをポイ捨てした。

 

短くなったタバコはコロコロと転がりながら反対車線を超えていった。

 

「車からタバコをポイ捨てするの、久しぶりに見た」と思った瞬間だった。

 

突然僕の中に、父がフラッシュバックした。

 

フラッシュバックした父は、運転中だった。

 

斜め後ろから父を眺めている僕は、幼稚園児だ。

 

父は、わなわなと怒りに震えていた。

 

歯を食いしばり、拳を突き上げていた。

 

固く握り締められた拳は、早く誰かを殴りたがっていた。

 

前の車が、タバコをポイ捨てしたのだった。

 

顔を真っ赤にした父は

「あのやろ〜」と心底憎そうに呟いた。

 

車には、家族全員が乗っていた。

 

それが醜態であることを、父は全く気が付いていなかっただろう。

 

なぜそんなにも怒る必要があったのか?

 

 

今なら「心が不安定だったから」。

 

そしてそれは

「彼の父との関係が成り立っていなかったから」と説明できる。

 

しかし、頭で理解できても、心はついていけない。

 

 

父についてのいい思い出は、ほとんどない。

 

僕が記憶している父は、いつも理不尽に怒鳴っていた。

 

父は、休日はよく寝て過ごした。

 

小さい頃、夕飯の準備ができると、母は

「お父さんを起こしてくれ」と頼んだ。

 

起こしに行くと父は

「うるさい!!」

と、怒鳴った。

 

僕の小さい頃の父への印象といえば、布団にくるまりながら、僕を怒鳴り散らしていたことだ。

 

いつか僕は、起こすよう頼む母親に

「ごしゃがれっからやんだ」と訴えると

 

母は

「ごしゃがねがら」

と、僕を諭し、やはり起こしにいかせるのだった。

 

恐る恐る起こしに行ったその日は、実際怒鳴られなかった。

 

今思えば、何度も訴えていた記憶があるので、母が父に伝えたのだろう。

 

ただ「父親はいつも怒鳴り散らす」という恐ろしいイメージは、残り続けた。

 

 

そんな父を育てた祖父は、ちょっと変わった人だった。

 

理屈というものが全く通じない人だった。

 

ただ、孫に対しては、まさに猫可愛がりという可愛がり方で、僕は祖父のことが大好きだった。

 

全くの向こう見ずで強引な性格だった祖父だったが、孫を可愛がるという点では、一貫していた。

 

だから僕は、大人になってからも、祖父のことを「困った人」と思うことがあっても、好きでいられた。

 

痴呆で寝たきりになって入院してからも、何度も見舞いに行った。

 

父が(母ならなおさら)こんな風になっても、僕は絶対に見舞いなど行かない。

 

団子屋を営んでいた祖父は、夕方になると、決まって孫に会いに来てくれた。

 

彼は僕を見るたびに、くしゃくしゃの笑顔になった。

 

何を話すわけでもなかった気がするが、彼はコーヒーを飲んでひっきりなしにタバコを数本吸うと、満足して帰って行った。

 

 

祖父が帰る際、駐車場に向かう時に、居間前を回る必要があった。

 

祖父が玄関を出た後、僕ら孫は、居間の窓で祖父を待ち受けた。

 

窓から手を出し、祖父に握手を求るのだ。

 

そのときの祖父の顔も、笑顔でくしゃくしゃだった。

 

そして律儀に、一人一人と固い握手をしてくれた。

 

祖父の手は固かった。

 

指先に乾いた団子がついていたときもあった(後から聞いた話だが、彼は手を洗わないらしかった)。

 

それが僕らの日課だった。

 

握手してもらうのが大好きだった僕は、朝、出勤する父に同じことを求めた。

 

僕は、祖父と同じように、父が笑顔で握手してくれるものだと思い込んでいた。

 

しかし、現実はそうはならなかった。

 

父は、握手に応じるどころか、顔をしかめ

「いいず!!」と不快な感情をあらわにして、子供の求めを強く拒絶した。

 

母が「じいちゃんも毎日そうやってくれんだ」と理解を求めると、

父は一度目こそ握手したものの、2度と対応しようとしなかった。

 

 

こうした負の記憶はたくさんある。

 

幼稚園か入園前だった。

 

何かで大泣きした僕は、泣き止む頃になって、父のあぐらの上に座っていた。

 

父は僕に

「もう泣くな」と言った。

 

実際、泣き止む寸前だった。

 

そこに父が

「もう泣くなず」

と言いいながら、僕の頭をはたいた。

 

僕は、また大泣きした。

 

今ならあのときの感情を言葉に直すことができる。

 

「理解してもらえないのが悔しい」ということだ。

 

 

そんな父は「あいさつ」にこだわった。

 

「おはよう」や「いただきます」などは、きちんというようにしつけられた(その反動だろうか。僕にその習慣は身につかなかった)。

 

小学1年の時だ。

 

朝僕は、漫画を読んでいた(県立海空高校野球部員山下たろーくん)

 

父が起きてきた。

 

自分は「おはよう」と言ったが聞こえなかったらしく

 

「漫画を読んであいさつもしないとは何事だ」

 

といきなり頭をどつかれた。

 

僕はこの理不尽な仕打ちに、とても悔しかったのを覚えている。

 

強く、恨む心を持った。

 

一方で僕は、父が僕以外をどついているのを、見たことがない。

 

 

今振り返れば小さなことだが、ずっとずっと僕の心の中に残り続けた。

 

この小さな不信感は大人になってから解消されることはなく、むしろ大きく育てられることになった。

 

彼は歳をとったせいか、温和になった。

 

でも、理不尽であり続けた。

 

というよりも、彼は幼稚だったのだ。

 

大人の社会では「筋が通ったこと」が多くの人から同意を得るのにとても重要なこと(たとえそれは親子間であったとしても)を、理解せずに過ごしてきたのだ。

 

そして僕は父をこえてしまった。

 

父にとってそれは、幸福なことであり不幸なことであった。

 

息子は、自分が憧れだったマスコミに入った。

 

以前は、記者と話をしただけでも舞い上がっていたのに、まさか自分の息子が記者になってしまった。

 

しかし、それゆえに、記者としてもまれた息子に愛想を尽かされることになった。

 

 

そして今、僕は父母と断絶するに至った。

 

 

 

今はただただ、早く死んでほしい、と願うばかりだ。

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「人に見せるもの」だった毒母の「教育」

小学6年のときだ。掃除の時間だった。

 

僕は友人をからかっていた。最初は遊び半分の空気があった。

 

僕がいったんゴミを捨てに階下に降りて戻った後にさらにからかった直後だった。

 

友人は「このやろう!!」と叫びながら僕に向かってきた。

 

僕は返り討ちにした。

 

目の近くを思いっきり殴ったらしかった。

 

僕はどなり返した。

 

「お前が殴ってきたから俺も殴ったんだからな!!」

 

殴られらた彼は、殴られた目の辺りを押さながら、自分の席へと戻っていった。

 

 

次の記憶は、保健室へと飛ぶ。

 

彼はずっと殴られたところを冷やしていた。

 

すごく腫れていたはずだ。

 

僕は彼に

 

「治ったら俺を思っいっきり殴っていいよ」と言った。

 

彼は一瞬、面食らったような表情を見せただだけで、何も言わなかった。

 

 

その後、恐らく、彼の母と私の母が学校に来たはずだ。

 

保健室の先生は

 

「ずっと付き添ってくれていたのは、本人も反省していんでしょう」と母に話した。

 

僕は、友達の顔が思った以上に腫れていたのに驚いてしまって、どうしたらいいかわからず戸惑っていた。それだけに僕をかばってくれる先生の発言は僕を救ってくれるものだった。

 

そんな、自分を支えてくれるような発言をしてくれる大人は、当時、僕の周りにはいなかった。

 

しかし母は、「そんなこと問答無用」とばかりに、僕を思い切りはたいた。

 

誇張なく「思い切り」だ。

 

驚くほどの強烈さだったのだろう。

 

今度は、先生の面食らった表情を目にすることになった。

 

先生は、口をあんぐりあげて、「信じられない」という表情だった。

その当日か翌日、母は菓子折りを持って友人宅に謝罪に出かけた。

 

友人の傷は、あと一歩ひどかったら、失明しかけていたという報告を受けたという。

 

その話を聞いて、僕もことの重大さを改めて知ることになった。

 

小学生低学年の頃の自分と、今の自分では、腕力が違うことをここで初めて知った。

 

低学年の頃、父は喧嘩をするよう僕に進め、家でパンチの練習までさせた。

 

「いじめっ子と喧嘩をした」というと、両親は喜んだ。

 

僕の中で「殴り合いはしてもいい」という考えが浸透していた。

 

しかし、6年生にもなると、事情は違ったのだ。

 

 

それから数日後、僕は、母に連れられその友人宅へ謝罪に行くことになった。

 

僕と母は玄関で、友人と彼の母が玄関に立って出迎えた。

 

母は平謝りに謝った。

 

そして僕に命令した。

 

「お前も謝れ!!」

 

 

僕は「怪我させてごめんなさい」と謝った。

 

するとまた、母は大声で怒鳴りながら激しく僕をはたいた。

 

「ケガさせる以前の問題だ!!」

 

僕は頭をはたかれたせいで体がふらついたが、なんとか踏みとどまった。

 

僕は体勢を戻しながら、友人とその母を見た。

 

二人とも面食らった表情を見せた。

 

あの日、保健室の先生が見せた表情と同じものだった。

 

友人の母は

 

「子供同士の喧嘩だから」を繰り返していた。

 

困惑していた。

 

 

今ならわかる。

 

母の「子育て」は、いつも「人に見せるもの」だったのだ。

「お前は嫌われている」という毒母の嘲笑

加藤諦三言いたいことが言えない人」を読んでいたら、突然、過去の記憶が蘇ってきた。

言いたいことが言えない人(愛蔵版)

 

この手の本を読んでいると、心の奥深いところこっそりと潜んでいた怒りが、突然表に現れてくる。

 

 

小学5年の時、突然、普段あまり遊ばない秀明から「学校さこいど」というTELがあった。

 

確か、日曜だった。

 

母親は「なんで学校にこいって呼ばれたんだ?電話してきき直せ」と命令した。

 

「理由もわからず行くなんて、バカだ」という一言を付け加えるのも忘れなかった。

 

どういう話の流れか忘れてしまったが、母はさらに

 

「お前は嫌われてんだ!!」と僕に宣告した。

 

周りには兄や妹がいた。

 

僕はこのとき、友達から嫌われていることはもちろん気づいてた。

 

むしろ、すごく悩んでいて、どうしたらいいかわからずにいた。

 

孤独の中にいた。

 

今思えば「いじめ」に遭っていたと言っていいだろう。

 

近所にはたくさんの同級生がいたが、いつも帰るときは一人だった。

 

でも親に相談することはできなかった。「恥ずかしい」という気持ちが先立った。

 

 

母親が「お前は嫌われてんの!!」と僕を突き放した時、母の目は、しっかりと僕を見据えていた。目には、嘲笑が含まれていた。

 

無力な僕は、小さく頷くしかなかった。

 

今思い返せば、あのときの僕は、本当にかわいそうだった。

 

小学生なのに、家庭に仲間はいなかった。

 

家庭に居場所がないことが当たり前だった。

 

部屋にこもって音楽を聴きながら漫画を読んでいると、姉が部屋に入ってた。

 

「ガキのくせに一人で電気つけてストーブつけてお金無駄にして生意気だっていってけっばよ」と勝ち誇ったように言うのだった。

 

こうした家庭で生きてきた中でも、僕はなんとかここまで生きてきた。

 

いっぱしの社会人として生きてきた。

 

子育てにも真正面から取り組んでいる。

 

そんな自分を、まずはたたえたいと思う。

 

でも、たたえる気持ちが2日と続かない。

 

それが毒親の子供だ。

心理カウンセリング④〜高校時代を振り返る〜

3回目のカウンセリングに行った。

 

 

この数日前、高校の同級生たちとの飲み会があった。

 

ずっと集まっていなかったが、僕とNがそれぞれ会社を辞めて独立する、ということで、門出を祝おう、という趣旨らしかった。 

 

ただ、Nは既に事業を始めている一方で、僕は完全失業者状態。

 

「なんとかなる」などと気丈に振るまっているものの、実際は先が見えていない。

 

不安になるから、敢えて何も考えない、だから何も進まない、という悪循環。

 

でも、この悪循環から抜け出す気力もなく、会社を辞めてもう4ヶ月も経つ。

 

悪循環の遠心力がだんだん強くなってきて、抜け出せなくなってきた感さえある。

 

そんな状態で古い友人に囲まれても、あまり楽しい気持ちにはなれない、というのが正直なところ。

 

山形は本当に狭い社会。

 

彼らには教えていないはずなのに、僕が両親と絶縁していることも知っている。

 

彼らは平気で

「親は親。早く仲直りしなさい」などと忠告してくる。

 

悪気がないのはわかっている。

 

でも、古い友達とはいえ、土足で家族関係に踏み込むようなことはしてほしくない。

 

それでも、気の置けない友人との久しぶりの席で、酒が進む。

 

僕もついつい本音を吐き出してしまう。

 

「なんで俺が高校の頃から哲学の本なんか読んでるかやっとわかった。」

と僕は切り出した。

 

彼らにとって

僕=哲学、だったのだ。

 

「親に愛されていなかったから。愛情を受けていれば『なぜ生まれてきたのか?』なんてことに悩んで哲学書ソフィーの世界)を開く必要なんかない」

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

 

 

そうして気づけば、僕は高校時代の自分に戻っていた。

 

高校を卒業して身につけてきた「ふるまい」を自ら脱ぎ捨て、本音を吐き出していた。

 

それから数日、僕はきつかった。

 

たった2度のカウンセリングでも、自分にいい変化があったのがわかった。

 

しかし、この飲み会の後は、なんだか、以前のあまり好きでない自分に戻ったような感じがした。

 

 

カウンセリングでその話をすると、

「揺さぶられた、ということですね」と言われた。

 

なるほど。その通り。

 

揺さぶられた、というやつです。

 

そして

「高校の頃の自分は好きでないのですか?」と聞かれた。

 

意外な質問だった。

 

高校の頃の自分を好きか?など、考えたこともなかった。

 

僕はじっと考えてみた。

 

カウンセリングでは「うまく話す」必要もない。

 

思いつくままに話してみる。

 

「高校のときは本当にきつかったです。勉強も部活もついていくのが精一杯で本当にきつかった…」

 

と話した時だった。

 

なぜか涙が出てきて、さめざめと泣いてしまった。

 

なぜだ??

 

なぜこんなことで泣く??

 

自分でもよくわからなかった。

 

ただわかっているのは、高校生活は、本当に本当にきつかった、ということ。

 

僕は一人、左沢線に揺られ学校に通った。

 

学校に着く頃には疲れ果てていた。

 

寒河江山形市なんて、何も変わらないと思っていたけど、そうじゃなかった。

 

文化が違った。

 

寒河江市山形市だけの違いならまだしも、山形市にはいろんなところから人が集まってきていた。

 

新庄の言葉が違うのは知っていたが、上山も方言が違うのは、驚きだった。

 

しかし、毎日上山の方言を聞くと、それはそれでストレスだった。

 

僕はここで「カルチャーショックはストレス」なのだとわかった。

 

最初のテストは、320人中310番だった。

 

僕は、どうしたらいいかわらかない泥沼をはえずり回っている気がした。

 

果てしない泥沼だった。

 

抜け出すには勉強をするしかなかったのだが、その多くが、苦痛なものでしかなかった。

 

無心に勉強を続けられる同級生を眺めていると、宇宙人に見えた。

 

 

決定的なのは、気のおける友達がいなかったことだ。

 

中学時代の親友は、寒河江高校を選んだ。

 

僕は、文化の違う世界で一人、戸惑っていた。

 

同じ左沢線で通う中山町の友人たちとは、全く話が合わなかった。

 

文化の違いに戸惑った。

 

彼らと一緒に帰ると、余計ストレスがたまった。

 

家に帰っても、いつも思いつめた表情をしていたのだろう。

 

母は僕に対し 

「もっと話をしろ」と言った。

 

母は母なりに、僕のことを心配しているようだった。

 

でも僕は「絶対にお前なんかに話すものか」と思っていた。

 

母はそれまで、僕の要求をあまりに無視し続けてきた。

 

僕にとって既に、遠い存在だった。

 

自分の話をするような相手ではなかった。

 

あまりに寡黙を貫く私に、母は戸惑っていた。

 

母は

「『お父さんにお前(次男)が喋らないんだ』と相談したら『男はそんなもんだ。気にするな。長男がヘラヘラ喋りすぎるだけだ』というんだ」と言った。

 

母は、父のその意見には納得できていない、という感じだった。

 

父は、次男(私)の理解という点では、壊滅的だった。

 

父は、恐らく、ものすごく幼稚な人間だったのだ。

 

人を見る尺度が、あまりに小さい。

 

 

一方で、母はそれでも私を理解しようとしていたのだろう。

 

「私に言えないなら、友達に電話しろ」と言った。「人間は吐き出さないとダメだ」

 

そのアドバイスがあってかどうかは覚えていないが、僕は実際、中学の親友・Kに電話した。

 

彼も寒河江高校で勉強についていけず(予習をやる気になれず)苦労していた。

 

話していくうちに、僕たちの声は沈んでいった。

 

彼と話すのは、自分にとって慰めになったのか、それとも改めて泥沼から抜け出せない自分に苛立ちを募らせることになったのか、わからなかった。

 

「なぜ僕の友人は皆、勉強をしたがらないのだろう?」という未解決の疑問が増えただけのような気もした。

 

 

我々の勉強への意欲は、父の僕への理解並みに、壊滅的だった。

 

 

高校の友人と会うと、こうした自分が甦るのだろう。

 

飲んでいるうちに、なんだか、型の合わない靴で歩いているような気がしてきた。

 

不快な気持ちだった。

 

ただ、元投手が

「お前の影響すごい受けた。もっともっと話したい」と何度も何度も繰り返し言ってきた。

 

僕は男子校だったが、なんというか「もてた」。

 

僕には一定のファンがいた。

 

一方で僕は、自分が思っていた以上に、高校時代の自分は、つらい思いをしていた。

 

この矛盾をどう受け止めるべきなのか。

 

つらい思いにひたすら耐えながら現実に向き合っているひたむきさに、惹かれた人がいたということだろうか。 

 

考察は続く

「両親が嫌い」というハンデ②

母は、こちらからヘルプを要請しない限り、絶対に子育てを手伝ってくれなかった。

 

「畑仕事で忙しい」という理由で、頼みを断ることもあった。

 

畑は趣味だった。

 

趣味のため、僕のお願いを断るのが許せなかった。

 

畑を手に入れた理由もまた、許せなかった。

 

畑は、父が定年後に購入した土地だった。

 

自宅の東側で

「家が建つがの嫌だった」「自宅の隣は倍のお金を出してでも買えというじゃないか」という理由で購入したらしかった。

 

でも、僕にとっては、不要な土地だった。

 

全く不要な土地だった。

 

こんな不必要な土地を買うお金があるのに、

僕にはこれまで「お金がない」という理由で散々我慢させられきた。

 

人生そのものを我慢させられてきた。

 

僕が高校3年の時、父は

「1年目は国立大であればどこを受験してもいい。

 でも浪人したら地元の国立大しか受験してはいけない」と宣告した。

 

父は、僕が高校一年の時

「お前みたいなタイプは、東京の私大に入って、いろんなタイプの人間に会ったほうがいい」とアドバイスした。

 

でも実際は、私立大を受験することすら許さなかった。

 

理由はもちろん「お金がかかる」。

 

僕は「まただ」と思った。

 

こういうことは、小さい頃から続いていた。

 

父はいつも、先のことについては調子のいいことを言った。

 

そして、いざその時になると、逃げた。

 

文句を言うと

「その時はそう思っていた」と、悪びれる様子は全くなかった。

 

父に母も加勢した。

「そのときはそう思っていた」

 

僕には

「その時はそう思っていた」という論理が、

相手との口約束を反故にできるということが、子ども心にも理解できなかった。

 

そういう日々が積み重なった。

 

勉強が苦手だった僕は、

浪人しないで、志望の国立大学に入ることは無理だった。

 

志望大学の判定はきっかり「E」だった。

 

センター試験の準備しかしてないのに、センターの結果が「E」。

 

2次試験は、逆転どころか、差を広げられるのは火を見るよりも明らかだった。

 

父は

「国立であれば、1年目は県外の大学受験していいが、浪人したら地元の大学のみ」という条件をつけた。

 

志望大学がE判定だった僕には

①「志望大学で玉砕して、来年山形大学に入る」 

②「志望大学はあきらめ、現役で山形大学に入る」

という2択を迫られていることがわかった。

 

いずれにせよ、山形大学しか選択肢がなかった。

 

それがいやなら、山形大学よりランクの低い、山形よりさらに田舎の大学にいくしなかった。

 

でも、そのことに気づいているのは僕だけだった。

 

僕の両親は、絶対にそんなことに気がつかない。

 

彼らは、僕の立場になって考える、ということは絶対にしない人たちだった。

 

そして僕は、現役で山形大学を受験する選択肢を選び、山形大学に入った。

 

暗黒と絶望の日々が待っていた。

 

 

僕は、次第に両親に対して、何も期待しないようになった。

 

「両親に頼る」ということは、僕にとって「悪」になっていった。

 

だから、留学を決めた時「お金は出さなくていい」と言った。

 

留学のためお金を出させる、というのは、何だか申し訳ないことだった。

 

全額自費で中国に留学した。

 

学費も生活費も、全額だ。

 

逆に言えば、自費で留学できるのは、アジア諸国に限られていた。

 

両親は、それに甘えた。

 

留学先で「自費できている」などという学生は、1人もいなかった。僕を除いて。

 

皆、留学費用の多くを、親が出してくれていた。

 

そして、それが当たり前だと思っているようだった。

 

 

 

留学とは、将来への投資だ。

 

でも彼らは、それをしなかった。

 

子どもの将来への投資は、最低限に抑えたくせに、必要のない土地を買うのは惜しくないらしかった。

 

子供に投資するのは惜しかったが、こういう無駄な土地を買うお金は惜しくないのか、と思うと、僕は、自分が抑えつけていた感情が再燃してくるのがわかった。

 

ただ、僕はすでに独立していた。

 

彼らの財布は、僕の財布とは無関係になっていた。

 

僕は、記者業務をこなしながら、なんとか家事を手伝っていた。

 

妻は妻で、決して器用な人間ではないが、外国で実母のヘルプがない中、慣れない育児に奮闘していた。

 

 

妻も、私の母が苦手だった。

 

私の実家で過ごした後、アパートに戻ると、妻は決まって私に愚痴った。母の文句を言うのだった。

 

私も母が人格に問題があると認識しているので、愚痴を言うことは理解できた。

 

ただ、妻のネガティブになった感情を普通の状態まで戻してやる作業は、骨の折れることだった。

 

そんな関係だったから、双子の育児が大変でも、僕の実家にお願いするということもなかった。

 

ただ、本当にどうしようもなくなってヘルプを頼んだことがあった。

 

しかし、頼んでも来てもらえない、ということもあり、

僕の両親にヘルプを頼む、ということもしなくなっていた。

 

 

気がつくと、僕たち夫婦は、双子の世話に追われ、どんどんと追い込まれていった。

「両親が嫌い」というハンデ①

37歳にもなって自分探しもない。

 

こんなこと、他の人に言えない。

 

「僕は37歳です。自分探しをしています。」

 

バカだ…

 

恥ずかしい…

 

そんなこと面と向かって言われてら、自分だったらドン引きする。

 

でも。

 

でも。

37歳の僕は、今、自分探しに必死です。

 

 

本当の自分はどこにあるのか?

 

僕は必死で探している。

 

きっかけ

あれは、2017年の6月だった。

 

ちょうど僕が、仕事が休みの日だった。

 

午後4時頃だったと思う。

 

妻が突然起き上がれなくなった。

 

腰に激痛が走ったのだ。

 

表情は激しく歪み、うめき声があがる。

 

僕は、救急車を呼んだ。

 

 

ほどなくして、サイレンの大きな音が聞こえてきて、止まった。

 

表に出ると、救急車が家の前に止まっていた。

 

見慣れたはずの救急車だったが、とても大きく見えた。

 

 

 

サイレンが鳴り響いてた後の住宅街は、いつも以上にひっそりとしていた。

 

救急車からは、男性2人と女性1人が降りてきた。

 

白衣姿だったと思う。

 

僕は、妻が横たわっている部屋に案内した。

 

隊員が起こそうとすると、妻はさけび声を上げた。

 

救急隊員はあきらめて、担架を持ってきた。

 

3人で「せーの」と声を合わせ、なんとか妻を乗せた。

 

寝ていた子供2人は、義父に任せて、僕も救急車に乗り込んだ。

 

隊員は、すぐに複数の病院とやり取りをして、搬送先の病院を決めた。

 

近所の病院だった。

 

 

特に骨にも異常がないらしく、座薬を打つと、症状は落ち着いた。

 

原因はよくわからなかった。

 

僕は勝手に「疲れ」と断定した。

 

近所に住む義理の姉に電話をして、義父を手伝ってもらった。

 

11ヶ月の双子の娘の食事も、なんとか無事、済んだようだった。

 

あすも休みをもらおうと、会社に電話した。

 

「休まれて迷惑」という態度を取られることも覚悟したが、上司はむしろ「大変だな」と同情してくれた。

 

僕は、電話しながら「黄門様の紋所」を思い出していた。

 

「救急車で運ばれた」という一言が、効いた。

 

 

夜8時頃、タクシーで自宅に戻った。

 

症状が落ち着いた、と言っても、妻は横になるしかなった。

 

あしたも大変な1日になりそうだと思った。

 

僕が家事や育児を全部することになる。

 

義姉の存在はありがたかったが、2日連続で頼る気にはなれなかった。

 

僕は、自分の母のことを思い出した。

 

でも、母にきょうのできごとを伝える気にはなれなかった。

 

会いたくなかった。

 

 

翌日もやはり、妻は腰が痛くて起き上がれなかった。

 

妻がゆっくり休めるように、僕は双子を外に連れ出した。

 

 

家に戻ると、双子を庭で遊ばせた。

 

妻は、夕方になってなんとか起き上がった。

 

ちょうどそのときだった。

 

母が来た。

 

義理の姉が、妻が倒れたことを伝えたらしかった。

 

母が家に入り込んできた時、妻がちょうど起き上がっていたところだった。

 

そして母は拍子抜けしたように言った。

 

「な〜んだ。大丈夫じゃん」

 

妻の体調への興味はゼロになったようだった。

 

そして母は、庭で遊んでいた双子の娘に会おうと外に出た。

 

会うのは一体いつぶりだろうか。

 

母が双子に突然近づいていったものだから

双子は、怯えた表情を見せた。

 

双子にとって私の母は、もはや「知らない人」なのだ。

 

母は、そんなことには気付いていないようだった。

 

気付いたとしても、相手のネガティブな感情など、気にかけない人間でもあった。

 

母は、双子のうちの、私に似ているほうに目をかけていた。

 

しかし、彼女は双子を間違えた。

 

「えっ?頭の小さい方じゃないの??」と言った。

 

 

自分の孫なのに、双子の顔を見間違えるくらい、久しぶりだった。

 

許せなかった。

 

露骨なえこひいきに吐き気がするほど嫌な思いがしていた。

判別する理由もどこか、差別的だった。

 

双子を見間違えるほど面倒を見ようとしない母が、憎くて仕方がなかった。

 

僕は、湧き上がってきた怒りを抑えようとは思わなかった。

 

サイレンが住宅街に鳴り響いた翌日、怒号が響いた。

 

 

母が家に戻った後、たくさんのラインがきた。

 

「ばかやろう!!」

「親に怒鳴るとは何事だ!!」

 

腰が痛くてしょうがない妻にも、ラインがきた

「関係を修復するよう、しっかりやってください」

 

「子供の写真だけは送るように」

 

 

火に油を注ぐようなものばかりだった。

 

僕の怒りはさらに膨らんだ。

 

そして絶望が広がった。

 

僕は、こんなにも無神経で、相手の痛みに想いを寄せることのできない人間に、一体どれくらい支配されてきたのだろうか?

 

母は、

「なんで怒鳴られるのかわけがわからない」とも送ってきた。

 

僕はその理由を伝えたいとは思わなかった。

 

伝えたところで、母は正面から僕の想いを受け止める、ということは絶対にしないだろう。

 

伝えたら、絶望がさらに大きくなるだけだ。

 

 

伝えなければ僕の怒りは僕の中にしこりとして残ったまま。

 

伝えれば、さらに大きな絶望感に覆われる。

 

どうすることもできなかった。 

 

どんな状況であれ、僕には双子の子供がいて、僕は父だった。

 

僕は、家庭を築く責任があった。

 

でも、手本とすべき家庭はなかった。

 

とりあえず僕は、自分の怒りの原因を分析することから始めることにした。

 

続く

心理カウンセリング③〜慟哭の初診〜

看護師による聞き取りは、およそ30分間続いた。

 

その間彼女は辛抱強くカルテを取り続け、僕を励まし続け、受け入れ続けた。

 

そして言った。

 

「カウンセリングは井戸を掘るのに似ています。先生もそうおっしゃっています。

 最初は泥水しか出ません。ドロドロした感情しか出ません。

 でも、泥を出し切れば、いつかきっと清流が出てきます」

 

僕は、救われたような気がした。

 

僕を取り巻くこのネガティブな感情も、吐き出してしまえば、おさらばすることができる。

 

希望が見えた瞬間だった。

 

 

そして、医師が待つ診療室に案内された。

 

これまた、和室で、リラックスできるようにしつらえた部屋になっていた。

 

医師は、僕を見た。

 

僕は敢えて目を見ないようにした。

 

それでも医師は僕を見続けていたので、これは敢えて目を合わせようとしているのだとわかり、ソファに座りながら医師の目を見た。

 

無条件で僕を受け入れている、包容力のある、力強い目だった。

 

新婚さんいらっしゃい!」のシナリオライターのおじいさんと同じ目だ、と思った。

 

鋭いけれど愛に溢れた目。

 

医師は、おじいさんだった。

 

彼は、看護師が書いたカルテに目を通した。

 

「このカウンセリングは時間かかるなぁ」とつぶやいた。

 

「これがなぁ、きついだよなぁ」と、ペンでカルテをペンペンと叩いた。

 

そこは僕の家族構成、つまり、双子の部分だった。

 

 

彼は「双子の親であることが、僕を余計に辛くさせている」という。

 

彼がポツリポツリ話しているのをつい遮った。

 

「双子でも、『僕似の子』と『妻似の子』とがいるんですが、僕に似ている方をかわいいと思えないんです」

 

僕の涙腺は、タガが外れてしまっていた。

 

医師は

「そういうものだ」と言った。

 

「与えてもらっていないものは、与えられない」。

 

でも、僕はそれを受け入れたくなかった。

 

「でも、そうすると、この子も僕みたいになってしまうんじゃないですか?」

 

「連鎖するってことかい?そうだね。親の愛情不足は連鎖し続けて起きている。

 でも、気付いたから。なんとかなるでしょ」と言った。

 

「なんとかなるでしょ」は、どこか投げやりに聞こえなくもなかったが、本当に何とかなると思っているようでもあった。

 

そして続けた。

 

「ちょっとひどいことを言うかも知れないけど」と前置きしてから

 

「あなたの母親は、あたなの言う通り、学歴コンプレックスがあって、冷淡で、でも自分のことは愛情深いと思っている。その通りなんだよ」と言った。

 

僕は深く頷いた。

 

そして医師は

「僕は母親の葬式にすら行ってない。足が向かなかった」とあけすけに言った。

 

僕は驚いて医師を見た。

 

彼は何てことない、という表情だった。

 

「この近藤章久という人にカウンセリングしてもらったの」と、

机の上に積まれた本を見せた。

 

ホーナイの最終講義―精神分析療法を学ぶ人へ」という本で、近藤章久氏が翻訳した本だった。

 

そうなのか。彼も母親との関係で苦しんだのか。

 

そういえば、加藤諦三氏もそうだった。

 

僕が

「先生も本を書かれたんですね」と、一緒に積まれていた心の病の診察室―あなたの愛が子どもを救う」を手で示した。

 

医師は、他の精神科医を批判した箇所に触れ

「ここがちょっとトラベルになってねぇ」と裏話をしてくれた。

 

 

カウンセリングを続けることになった。

 

医師は僕を「感受性が強い」と表現した。

 

それがどんな意味合いを含むのかは、わからなかった。

心理カウンセリング②〜慟哭の初診〜

僕は意を決して、以前電話した精神科で予約をとった。

 

僕の動悸は、抜き差しならぬものになっていた。

 

11月から通っている職業訓練校では、「Illustrator」や「Photoshop」の授業が行われていた。

 

興味のあることではあるが、1日6時限座りっぱなしで自由がないことは、思った以上にストレスのかかることらしかった。

 

仕事ではある程度自分のペースで仕事ができるが、ここでは、トイレにいく時間さえも管理される。

 

平成生まれという講師の頼りなさもまた、ストレスの原因かも知れなかった。

 

仕事の力がないから故に、やけにすり寄ってくるタイプの講師だった。

 

授業が進むのが遅いのは、おそらくこの講師のやり方の特徴でもあった。

 

 

 11時からの予約をとっていた僕は、強い動悸とともに何とか2時限をやり過ごし、医院へと向かった。

 

診療所は、いかにも「町医者」という、こじんまりとして素朴なものだった。

 

小さな駐車場はいっぱいだった。

 

狭い道に、いくつもの車が縦列で並んでいた。

 

空っ風が吹き込んでしまいそうなガラス戸を開けて入ると、昭和の香りがする内装だった。

 

待合室は、狭かったが、椅子がスペースいっぱいに並べられていた。

 

診療を待っている人たちは、僕の予想に反して、暗い表情はしていなかった。

 

貧相なガラス戸で仕切られた事務室は、若い女性職員や看護師でいっぱいだった。

 

出窓の台に無造作に並べられているに目をやると、この診療所の医師の名前があった。

 

ここの医師は本を出しているのか?

 

僕は待っている間、その「心の病の診察室―あなたの愛が子どもを救うを読んでみた。

心の病の診察室―あなたの愛が子どもを救う

 

なんだこれ。

 

めちゃくちゃいい本じゃないか!!

 

彼の主張は、加藤諦三氏と同じだった。

 

・子どもの頃(思春期を含む)親からの愛を受けてない人は、大人になってから苦しむ。

・苦しみから救うためには、愛を与える必要がある。

・そのためには母親の意識を変える必要がある。

 

衝撃だった。

 

加藤諦三氏と同じような分析をしている人が、こんなに近くにいたとは…

 

しかも、本を数冊出していた。

 

出版するというのは、並のことではないだろう。

 

 

僕の名前が呼ばれ、看護師が僕を個室に案内した。

 

和室だった。

 

ソファもあった。

 

「リラックスできる場所」を意識的に作っているのがわかったが、実際リラックスできる場所だった。

 

そして、看護師(兼心理カウンセラー)の質問が始まった。

 

「どうされました?」

 

「動悸があるんです」

 

「いつごろからですか?」

 

僕は正直に答えていった。

 

「どんなときに動悸がおきますか?」

と質問されたときだった。

 

僕は「仕事などでストレスを抱えたとき」と話した後に

 

「自分でも認めたくないんですが、子どもを抱っこしているときです」と答えた瞬間だった。

 

慟哭してしまった。

 

意外だった。

 

 

双子を抱っこしているときに自分の動悸が激しくなる。

 

最初はそんなわけがない、と思った。

 

最初は、突然抱き上げたから、心臓がゼエゼエいっているだけだと思った。

 

まさか自分が、双子を抱っこすることにストレスを感じているわけがない。

 

そう思っていた。

 

しかし、抱っこするたびに動悸が激しくなるのがわかると、

もう認めないわけにはいかなかった。

 

僕は「子どもを抱っこするのにストレスを感じる父親」なのだ。

 

 

 

これは、現実なのだ。

 

僕は、もう既にこの事実を認めていた。

 

だから、淡々と説明するつもりだった。

 

しかし、口に出した途端だった。

 

涙が溢れ出てきたのだった。

 

僕はしばらくの間、話せなくなった。

 

看護師は、僕にティッシュを渡した上で、肩をさすってくれた。

 

初対面のおっさんが醜態をさらしているが、それはそれで受け止めてくれていた。

 

 

僕が落ち着きを取り戻すと、家族構成を聞かれ

 

「どんな母親だったか?」と質問された。 

 

「ヒステリックで冷淡で、でも自分では自分を愛情深いと思っている人間だと思います。学歴コンプレックスの強い人でした。」

 

と話した。

 

話の流れは覚えていないが

 

「私のことをほめるときはいつも『頭がいい』とほめました。人間性をほめてくれたことはありませんでした」

と言った瞬間だった。

 

一度涙腺がゆるんでしまったせいか、 また僕は慟哭してしまった。

 

わけがわからない。

 

僕は普段、映画なんかでも涙腺が刺激される、ということがほとんどない。

それなのになぜ自分は、こんなにも泣き出す必要があるんだ??

 

「他に何か、こんなこと言われたとか、覚えていることありますか?」

 

なぜそのことを思い出したのかは覚えていない。

 

小さいことだった。

 

「家族全員で、ホームセンターに行った時です」と僕は話した。

 

「母に、棚いるか?と聞かれたんです。

あの頃僕は、何か買うようにねだっても、いつも無視されていました。

そうしているうちに、いつからか、ねだることすらできないようになっていました。

だからその日は、珍しく母から「いるか?」と聞かれて本当にうれしかった。

でも物を欲しがるのは悪だと思いこまされていた自分は、曖昧な返事しかできませんでした。

 

車に戻って後です。

 

母に「あれ?買わなかったの?」と聞きました。

 

すると母は『我が家でははっきりと欲しいと言わない限り買いません!!』とぴしゃりと言ったんです。とても冷たく。突き放すように。

 

ショックでした。

 

とても傷ついたことを覚えています。

 

そして、隣で運転していた父は、何も言いませんでした」 

 

 

あの時の母の表情が忘れられない。

 

そして、こうした心の傷は、誰にも気付かれず、ずっと僕の心を蝕み見続けてきたのだろう。

心理カウンセリング①〜俺は精神科行きなのか?〜

「精神科に行く」というのは、勇気のいることだった。

 

僕は今、こちら側にいる。

 

つまり、「精神科に行ったことのない、健全な人間」。

 

一度向こう側に行ってしまえば、二度と戻ってこれないのではないか?

  

僕は「ノルウェイの森 (講談社文庫)」ノルウェイの森 (講談社文庫)に出てくる、レイコさんを思い出した。

 

 

ぼん。

 

一度壊れれば、ずっと療養所から出られない。

 

出られないだけならまだいい。療養所に入った直子は死を選んだ。

 

 

 

僕の親しい友人にも「うつ」で薬を処方してもらった人が数人いた。

 

その後、友人はみな、バッチリ復活して生活している。

 

それでも僕にとって「精神科」と聞いて、いいイメージは何一つなかった。

  

精神科に行くというのは、大きな境界線を越えていくことだった。

 

ただ、心の奥底では、自分にカウンセリングが必要なことは、わかっていた。

 

 

以前、会社を辞める前に、仕事の合間に精神科に電話をしたことがある。

 

誰に相談したらいいかわからず、グーグルの口コミを参考にしたのだった。

 

 

仕事が一段落して

「もしこれから受け付けてくれるなら行こう」と思った。

 

しかし、電話口の女性は

「前日までに予約が必要です」と淡々と答えた。

 

それは「いくらテコで動かしても絶対に動かない揺るぎのない規則」のように聞こえた。

 

 当時の僕にとって「前日までに予約を入れる」というのは、ハードルの高いことだった。

 

なんとか仕事の合間をぬって診療したかったが、なかなかそうはいかなかった。

 

 休みの日は、たまった家事をこなすことで精一杯だった。

 

 

 

当時僕は、突然襲われる動悸に苦しんでいた。

 

動悸は、仕事が忙しくなると起こった。

 

衆議院選挙で仕事が立て込んでくると、自宅に戻ってから、動悸が起こる自分と静かに戦わねばならなかった。

 

当時僕は、文字通り2人分の仕事をこなせばならなかった。

 

会社が派遣労働者を増やしたことは、間違いなく僕にもしわ寄せがきていた。

 

社会全体で起きていることが、僕の身の上でも起きていた。

 

 

そして、上司はこのことに全く無頓着だった。

 

上司たちは、その上司を見るので精一杯だった。

 

これもやはり、社会全体で起きていることだった。

 

 

年末になると、特番準備で忙しくなった。

 

家に帰れば、1歳の双子が待っていた。

 

「パパ!!パパ!!」と迫ってくるので、食事は台所で立って済ませた。

 

子どもたちが僕の食事を触れば、双子の手を洗う、着替えさせる、という

新たな家事が増えることになる。 

 

休めるのは双子が寝た後だったが、双子はよく夜泣きした。

 

双子は交互に泣いた。

 

妻の体力も限界状態が続いていたので、泣くたびに僕が抱っこしに行くしかなかった。

 

「ああ、また今日も休む時間がなくなった…」と思った。

 

夏が恋しかった。

 

泣いても抱っこ紐で子どもを抱いて外を散歩していれば、僕自身も気が紛れたし、子どももすぐに寝付いてくれた(家に戻れば起きて泣いた)。

 

冬となると、そうもいかなかった。

 

僕はいつ果てるとも知らぬ夜泣きに、戦々恐々とする日々が続いた。

 

もう泣かないでくれ!!と思っていても、通じなかった。

 

 

ようやく1人になれたと思えば、

 

激しくなる動悸と向き合うこととなった。

 

 

朝ゆっくり寝ていたくても、

 

双子が「パパ!!パパ!!」と叫びながら、僕の寝室にやってくるのだった。

 

休みは妻を休ませる必要があった。

 

 

我々夫婦は「私の方が大変だ相撲」を取り合っていた。

 

そして、一人っ子政策で〝小皇帝〟として育った妻は、強敵だった。

 

4人兄弟の3番目で

わがままが許されず育った僕を捻りつぶすことなど、

たやすいことだった。

 

ただ僕は、敢えて負ける必要があった。

 

双子のためには、母親に心の余裕を持ってもらう必要があるからだ。

 

僕は連戦連敗であることを自覚しながらも

 

休みの日の午後は、よく双子を車に乗せてドライブした。

 

寝て欲しい時に限って、双子のどちらかが寝てくれなかった。

 

僕は疲れで追い込まれても、為す術はなかった。

 

言葉を話せない子どもが

「パパどうしたの?」という目で僕を見ることもあった。

 

1歳の娘にも、僕が休めず追い込まれているのが伝わったのかも知れない。

 

彼女は僕を心配そうに見つめると、不安が高ぶり寝付けなくなるらしかった。

 

「どうか早く寝てください」という気持ちは、1歳の双子には通じなかった。

 

そうして休みは、休むことなく過ぎていった。

 

会社に戻れば、 人並み以上の仕事をしなければならなかった。

 

誰も頼る人はいなかった。

 

仕事で頼る人がいないのはあまり気にならなかったが、

 

子育てで頼る人がいないのは、きついことだった。

 

妻は僕に頼った。

 

でも、僕は頼る人がいなかった。

 

親とは絶縁していた。

 

加藤諦三氏の本(自分に気づく心理学)を読んで、

自分に気づく心理学

僕は親に対して激しい憎しみを抱いているのには気がついていたが、

この憎しみをどう処理していいのか、わからずにいた。

 

とにかく、親と距離を置く以外、方法が見つからなかった。

 

ただひたすら、記者・ディレクター業務に追われながら、

外国人の妻と双子を育てていくしかなかった。

 

僕は次第に、激しい動悸が続くのを、意識しないわけにはいかなくなかった。

 

僕は既に、精神科の領域に踏み込んでしまっている自分を、認めないわけにはいかなかった。

 

 

ただ僕の中には

「仕事を辞めさえすれば動悸は治まる」という確信があった。

 

だから、仕事の合間をぬって精神科に行くことができないのであれば、それはそれで問題のないことだった。

 

しかし。

 

しかしだった。

 

仕事を辞めてもなお、というより、むしろ動悸が激しくなってしまったのだった。