毒親に苦しむ39歳の子育て模索〜対策・解決方法はありますか?〜

子供ができたのをきっかけに、自分の親が毒親であることに気がつきました。「負の連鎖」を断ち切るため、どうしたらいいのか、悩み続けています。

フラッシュバック

職業訓練校に通う道すがらだった。

 

山形7中を通り過ぎ、橋を渡ったところだった。

 

前の軽自動車が、タバコをポイ捨てした。

 

短くなったタバコはコロコロと転がりながら反対車線を超えていった。

 

「車からタバコをポイ捨てするの、久しぶりに見た」と思った瞬間だった。

 

突然僕の中に、父がフラッシュバックした。

 

フラッシュバックした父は、運転中だった。

 

斜め後ろから父を眺めている僕は、幼稚園児だ。

 

父は、わなわなと怒りに震えていた。

 

歯を食いしばり、拳を突き上げていた。

 

固く握り締められた拳は、早く誰かを殴りたがっていた。

 

前の車が、タバコをポイ捨てしたのだった。

 

顔を真っ赤にした父は

「あのやろ〜」と心底憎そうに呟いた。

 

車には、家族全員が乗っていた。

 

それが醜態であることを、父は全く気が付いていなかっただろう。

 

なぜそんなにも怒る必要があったのか?

 

 

今なら「心が不安定だったから」。

 

そしてそれは

「彼の父との関係が成り立っていなかったから」と説明できる。

 

しかし、頭で理解できても、心はついていけない。

 

 

父についてのいい思い出は、ほとんどない。

 

僕が記憶している父は、いつも理不尽に怒鳴っていた。

 

父は、休日はよく寝て過ごした。

 

小さい頃、夕飯の準備ができると、母は

「お父さんを起こしてくれ」と頼んだ。

 

起こしに行くと父は

「うるさい!!」

と、怒鳴った。

 

僕の小さい頃の父への印象といえば、布団にくるまりながら、僕を怒鳴り散らしていたことだ。

 

いつか僕は、起こすよう頼む母親に

「ごしゃがれっからやんだ」と訴えると

 

母は

「ごしゃがねがら」

と、僕を諭し、やはり起こしにいかせるのだった。

 

恐る恐る起こしに行ったその日は、実際怒鳴られなかった。

 

今思えば、何度も訴えていた記憶があるので、母が父に伝えたのだろう。

 

ただ「父親はいつも怒鳴り散らす」という恐ろしいイメージは、残り続けた。

 

 

そんな父を育てた祖父は、ちょっと変わった人だった。

 

理屈というものが全く通じない人だった。

 

ただ、孫に対しては、まさに猫可愛がりという可愛がり方で、僕は祖父のことが大好きだった。

 

全くの向こう見ずで強引な性格だった祖父だったが、孫を可愛がるという点では、一貫していた。

 

だから僕は、大人になってからも、祖父のことを「困った人」と思うことがあっても、好きでいられた。

 

痴呆で寝たきりになって入院してからも、何度も見舞いに行った。

 

父が(母ならなおさら)こんな風になっても、僕は絶対に見舞いなど行かない。

 

団子屋を営んでいた祖父は、夕方になると、決まって孫に会いに来てくれた。

 

彼は僕を見るたびに、くしゃくしゃの笑顔になった。

 

何を話すわけでもなかった気がするが、彼はコーヒーを飲んでひっきりなしにタバコを数本吸うと、満足して帰って行った。

 

 

祖父が帰る際、駐車場に向かう時に、居間前を回る必要があった。

 

祖父が玄関を出た後、僕ら孫は、居間の窓で祖父を待ち受けた。

 

窓から手を出し、祖父に握手を求るのだ。

 

そのときの祖父の顔も、笑顔でくしゃくしゃだった。

 

そして律儀に、一人一人と固い握手をしてくれた。

 

祖父の手は固かった。

 

指先に乾いた団子がついていたときもあった(後から聞いた話だが、彼は手を洗わないらしかった)。

 

それが僕らの日課だった。

 

握手してもらうのが大好きだった僕は、朝、出勤する父に同じことを求めた。

 

僕は、祖父と同じように、父が笑顔で握手してくれるものだと思い込んでいた。

 

しかし、現実はそうはならなかった。

 

父は、握手に応じるどころか、顔をしかめ

「いいず!!」と不快な感情をあらわにして、子供の求めを強く拒絶した。

 

母が「じいちゃんも毎日そうやってくれんだ」と理解を求めると、

父は一度目こそ握手したものの、2度と対応しようとしなかった。

 

 

こうした負の記憶はたくさんある。

 

幼稚園か入園前だった。

 

何かで大泣きした僕は、泣き止む頃になって、父のあぐらの上に座っていた。

 

父は僕に

「もう泣くな」と言った。

 

実際、泣き止む寸前だった。

 

そこに父が

「もう泣くなず」

と言いいながら、僕の頭をはたいた。

 

僕は、また大泣きした。

 

今ならあのときの感情を言葉に直すことができる。

 

「理解してもらえないのが悔しい」ということだ。

 

 

そんな父は「あいさつ」にこだわった。

 

「おはよう」や「いただきます」などは、きちんというようにしつけられた(その反動だろうか。僕にその習慣は身につかなかった)。

 

小学1年の時だ。

 

朝僕は、漫画を読んでいた(県立海空高校野球部員山下たろーくん)

 

父が起きてきた。

 

自分は「おはよう」と言ったが聞こえなかったらしく

 

「漫画を読んであいさつもしないとは何事だ」

 

といきなり頭をどつかれた。

 

僕はこの理不尽な仕打ちに、とても悔しかったのを覚えている。

 

強く、恨む心を持った。

 

一方で僕は、父が僕以外をどついているのを、見たことがない。

 

 

今振り返れば小さなことだが、ずっとずっと僕の心の中に残り続けた。

 

この小さな不信感は大人になってから解消されることはなく、むしろ大きく育てられることになった。

 

彼は歳をとったせいか、温和になった。

 

でも、理不尽であり続けた。

 

というよりも、彼は幼稚だったのだ。

 

大人の社会では「筋が通ったこと」が多くの人から同意を得るのにとても重要なこと(たとえそれは親子間であったとしても)を、理解せずに過ごしてきたのだ。

 

そして僕は父をこえてしまった。

 

父にとってそれは、幸福なことであり不幸なことであった。

 

息子は、自分が憧れだったマスコミに入った。

 

以前は、記者と話をしただけでも舞い上がっていたのに、まさか自分の息子が記者になってしまった。

 

しかし、それゆえに、記者としてもまれた息子に愛想を尽かされることになった。

 

 

そして今、僕は父母と断絶するに至った。

 

 

 

今はただただ、早く死んでほしい、と願うばかりだ。

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