毒親に苦しむ39歳の子育て模索〜対策・解決方法はありますか?〜

子供ができたのをきっかけに、自分の親が毒親であることに気がつきました。「負の連鎖」を断ち切るため、どうしたらいいのか、悩み続けています。

「両親が嫌い」というハンデ②

母は、こちらからヘルプを要請しない限り、絶対に子育てを手伝ってくれなかった。

 

「畑仕事で忙しい」という理由で、頼みを断ることもあった。

 

畑は趣味だった。

 

趣味のため、僕のお願いを断るのが許せなかった。

 

畑を手に入れた理由もまた、許せなかった。

 

畑は、父が定年後に購入した土地だった。

 

自宅の東側で

「家が建つがの嫌だった」「自宅の隣は倍のお金を出してでも買えというじゃないか」という理由で購入したらしかった。

 

でも、僕にとっては、不要な土地だった。

 

全く不要な土地だった。

 

こんな不必要な土地を買うお金があるのに、

僕にはこれまで「お金がない」という理由で散々我慢させられきた。

 

人生そのものを我慢させられてきた。

 

僕が高校3年の時、父は

「1年目は国立大であればどこを受験してもいい。

 でも浪人したら地元の国立大しか受験してはいけない」と宣告した。

 

父は、僕が高校一年の時

「お前みたいなタイプは、東京の私大に入って、いろんなタイプの人間に会ったほうがいい」とアドバイスした。

 

でも実際は、私立大を受験することすら許さなかった。

 

理由はもちろん「お金がかかる」。

 

僕は「まただ」と思った。

 

こういうことは、小さい頃から続いていた。

 

父はいつも、先のことについては調子のいいことを言った。

 

そして、いざその時になると、逃げた。

 

文句を言うと

「その時はそう思っていた」と、悪びれる様子は全くなかった。

 

父に母も加勢した。

「そのときはそう思っていた」

 

僕には

「その時はそう思っていた」という論理が、

相手との口約束を反故にできるということが、子ども心にも理解できなかった。

 

そういう日々が積み重なった。

 

勉強が苦手だった僕は、

浪人しないで、志望の国立大学に入ることは無理だった。

 

志望大学の判定はきっかり「E」だった。

 

センター試験の準備しかしてないのに、センターの結果が「E」。

 

2次試験は、逆転どころか、差を広げられるのは火を見るよりも明らかだった。

 

父は

「国立であれば、1年目は県外の大学受験していいが、浪人したら地元の大学のみ」という条件をつけた。

 

志望大学がE判定だった僕には

①「志望大学で玉砕して、来年山形大学に入る」 

②「志望大学はあきらめ、現役で山形大学に入る」

という2択を迫られていることがわかった。

 

いずれにせよ、山形大学しか選択肢がなかった。

 

それがいやなら、山形大学よりランクの低い、山形よりさらに田舎の大学にいくしなかった。

 

でも、そのことに気づいているのは僕だけだった。

 

僕の両親は、絶対にそんなことに気がつかない。

 

彼らは、僕の立場になって考える、ということは絶対にしない人たちだった。

 

そして僕は、現役で山形大学を受験する選択肢を選び、山形大学に入った。

 

暗黒と絶望の日々が待っていた。

 

 

僕は、次第に両親に対して、何も期待しないようになった。

 

「両親に頼る」ということは、僕にとって「悪」になっていった。

 

だから、留学を決めた時「お金は出さなくていい」と言った。

 

留学のためお金を出させる、というのは、何だか申し訳ないことだった。

 

全額自費で中国に留学した。

 

学費も生活費も、全額だ。

 

逆に言えば、自費で留学できるのは、アジア諸国に限られていた。

 

両親は、それに甘えた。

 

留学先で「自費できている」などという学生は、1人もいなかった。僕を除いて。

 

皆、留学費用の多くを、親が出してくれていた。

 

そして、それが当たり前だと思っているようだった。

 

 

 

留学とは、将来への投資だ。

 

でも彼らは、それをしなかった。

 

子どもの将来への投資は、最低限に抑えたくせに、必要のない土地を買うのは惜しくないらしかった。

 

子供に投資するのは惜しかったが、こういう無駄な土地を買うお金は惜しくないのか、と思うと、僕は、自分が抑えつけていた感情が再燃してくるのがわかった。

 

ただ、僕はすでに独立していた。

 

彼らの財布は、僕の財布とは無関係になっていた。

 

僕は、記者業務をこなしながら、なんとか家事を手伝っていた。

 

妻は妻で、決して器用な人間ではないが、外国で実母のヘルプがない中、慣れない育児に奮闘していた。

 

 

妻も、私の母が苦手だった。

 

私の実家で過ごした後、アパートに戻ると、妻は決まって私に愚痴った。母の文句を言うのだった。

 

私も母が人格に問題があると認識しているので、愚痴を言うことは理解できた。

 

ただ、妻のネガティブになった感情を普通の状態まで戻してやる作業は、骨の折れることだった。

 

そんな関係だったから、双子の育児が大変でも、僕の実家にお願いするということもなかった。

 

ただ、本当にどうしようもなくなってヘルプを頼んだことがあった。

 

しかし、頼んでも来てもらえない、ということもあり、

僕の両親にヘルプを頼む、ということもしなくなっていた。

 

 

気がつくと、僕たち夫婦は、双子の世話に追われ、どんどんと追い込まれていった。