「両親が嫌い」というハンデ②
母は、こちらからヘルプを要請しない限り、絶対に子育てを手伝ってくれなかった。
「畑仕事で忙しい」という理由で、頼みを断ることもあった。
畑は趣味だった。
趣味のため、僕のお願いを断るのが許せなかった。
畑を手に入れた理由もまた、許せなかった。
畑は、父が定年後に購入した土地だった。
自宅の東側で
「家が建つがの嫌だった」「自宅の隣は倍のお金を出してでも買えというじゃないか」という理由で購入したらしかった。
でも、僕にとっては、不要な土地だった。
全く不要な土地だった。
こんな不必要な土地を買うお金があるのに、
僕にはこれまで「お金がない」という理由で散々我慢させられきた。
人生そのものを我慢させられてきた。
僕が高校3年の時、父は
「1年目は国立大であればどこを受験してもいい。
でも浪人したら地元の国立大しか受験してはいけない」と宣告した。
父は、僕が高校一年の時
「お前みたいなタイプは、東京の私大に入って、いろんなタイプの人間に会ったほうがいい」とアドバイスした。
でも実際は、私立大を受験することすら許さなかった。
理由はもちろん「お金がかかる」。
僕は「まただ」と思った。
こういうことは、小さい頃から続いていた。
父はいつも、先のことについては調子のいいことを言った。
そして、いざその時になると、逃げた。
文句を言うと
「その時はそう思っていた」と、悪びれる様子は全くなかった。
父に母も加勢した。
「そのときはそう思っていた」
僕には
「その時はそう思っていた」という論理が、
相手との口約束を反故にできるということが、子ども心にも理解できなかった。
そういう日々が積み重なった。
勉強が苦手だった僕は、
浪人しないで、志望の国立大学に入ることは無理だった。
志望大学の判定はきっかり「E」だった。
センター試験の準備しかしてないのに、センターの結果が「E」。
2次試験は、逆転どころか、差を広げられるのは火を見るよりも明らかだった。
父は
「国立であれば、1年目は県外の大学受験していいが、浪人したら地元の大学のみ」という条件をつけた。
志望大学がE判定だった僕には
①「志望大学で玉砕して、来年山形大学に入る」
②「志望大学はあきらめ、現役で山形大学に入る」
という2択を迫られていることがわかった。
いずれにせよ、山形大学しか選択肢がなかった。
それがいやなら、山形大学よりランクの低い、山形よりさらに田舎の大学にいくしなかった。
でも、そのことに気づいているのは僕だけだった。
僕の両親は、絶対にそんなことに気がつかない。
彼らは、僕の立場になって考える、ということは絶対にしない人たちだった。
そして僕は、現役で山形大学を受験する選択肢を選び、山形大学に入った。
暗黒と絶望の日々が待っていた。
僕は、次第に両親に対して、何も期待しないようになった。
「両親に頼る」ということは、僕にとって「悪」になっていった。
だから、留学を決めた時「お金は出さなくていい」と言った。
留学のためお金を出させる、というのは、何だか申し訳ないことだった。
全額自費で中国に留学した。
学費も生活費も、全額だ。
逆に言えば、自費で留学できるのは、アジア諸国に限られていた。
両親は、それに甘えた。
留学先で「自費できている」などという学生は、1人もいなかった。僕を除いて。
皆、留学費用の多くを、親が出してくれていた。
そして、それが当たり前だと思っているようだった。
留学とは、将来への投資だ。
でも彼らは、それをしなかった。
子どもの将来への投資は、最低限に抑えたくせに、必要のない土地を買うのは惜しくないらしかった。
子供に投資するのは惜しかったが、こういう無駄な土地を買うお金は惜しくないのか、と思うと、僕は、自分が抑えつけていた感情が再燃してくるのがわかった。
ただ、僕はすでに独立していた。
彼らの財布は、僕の財布とは無関係になっていた。
僕は、記者業務をこなしながら、なんとか家事を手伝っていた。
妻は妻で、決して器用な人間ではないが、外国で実母のヘルプがない中、慣れない育児に奮闘していた。
妻も、私の母が苦手だった。
私の実家で過ごした後、アパートに戻ると、妻は決まって私に愚痴った。母の文句を言うのだった。
私も母が人格に問題があると認識しているので、愚痴を言うことは理解できた。
ただ、妻のネガティブになった感情を普通の状態まで戻してやる作業は、骨の折れることだった。
そんな関係だったから、双子の育児が大変でも、僕の実家にお願いするということもなかった。
ただ、本当にどうしようもなくなってヘルプを頼んだことがあった。
しかし、頼んでも来てもらえない、ということもあり、
僕の両親にヘルプを頼む、ということもしなくなっていた。
気がつくと、僕たち夫婦は、双子の世話に追われ、どんどんと追い込まれていった。