「人に見せるもの」だった毒母の「教育」
小学6年のときだ。掃除の時間だった。
僕は友人をからかっていた。最初は遊び半分の空気があった。
僕がいったんゴミを捨てに階下に降りて戻った後にさらにからかった直後だった。
友人は「このやろう!!」と叫びながら僕に向かってきた。
僕は返り討ちにした。
目の近くを思いっきり殴ったらしかった。
僕はどなり返した。
「お前が殴ってきたから俺も殴ったんだからな!!」
殴られらた彼は、殴られた目の辺りを押さながら、自分の席へと戻っていった。
次の記憶は、保健室へと飛ぶ。
彼はずっと殴られたところを冷やしていた。
すごく腫れていたはずだ。
僕は彼に
「治ったら俺を思っいっきり殴っていいよ」と言った。
彼は一瞬、面食らったような表情を見せただだけで、何も言わなかった。
その後、恐らく、彼の母と私の母が学校に来たはずだ。
保健室の先生は
「ずっと付き添ってくれていたのは、本人も反省していんでしょう」と母に話した。
僕は、友達の顔が思った以上に腫れていたのに驚いてしまって、どうしたらいいかわからず戸惑っていた。それだけに僕をかばってくれる先生の発言は僕を救ってくれるものだった。
そんな、自分を支えてくれるような発言をしてくれる大人は、当時、僕の周りにはいなかった。
しかし母は、「そんなこと問答無用」とばかりに、僕を思い切りはたいた。
誇張なく「思い切り」だ。
驚くほどの強烈さだったのだろう。
今度は、先生の面食らった表情を目にすることになった。
先生は、口をあんぐりあげて、「信じられない」という表情だった。
その当日か翌日、母は菓子折りを持って友人宅に謝罪に出かけた。
友人の傷は、あと一歩ひどかったら、失明しかけていたという報告を受けたという。
その話を聞いて、僕もことの重大さを改めて知ることになった。
小学生低学年の頃の自分と、今の自分では、腕力が違うことをここで初めて知った。
低学年の頃、父は喧嘩をするよう僕に進め、家でパンチの練習までさせた。
「いじめっ子と喧嘩をした」というと、両親は喜んだ。
僕の中で「殴り合いはしてもいい」という考えが浸透していた。
しかし、6年生にもなると、事情は違ったのだ。
それから数日後、僕は、母に連れられその友人宅へ謝罪に行くことになった。
僕と母は玄関で、友人と彼の母が玄関に立って出迎えた。
母は平謝りに謝った。
そして僕に命令した。
「お前も謝れ!!」
僕は「怪我させてごめんなさい」と謝った。
するとまた、母は大声で怒鳴りながら激しく僕をはたいた。
「ケガさせる以前の問題だ!!」
僕は頭をはたかれたせいで体がふらついたが、なんとか踏みとどまった。
僕は体勢を戻しながら、友人とその母を見た。
二人とも面食らった表情を見せた。
あの日、保健室の先生が見せた表情と同じものだった。
友人の母は
「子供同士の喧嘩だから」を繰り返していた。
困惑していた。
今ならわかる。
母の「子育て」は、いつも「人に見せるもの」だったのだ。