毒親に苦しむ39歳の子育て模索〜対策・解決方法はありますか?〜

子供ができたのをきっかけに、自分の親が毒親であることに気がつきました。「負の連鎖」を断ち切るため、どうしたらいいのか、悩み続けています。

心理カウンセリング①〜俺は精神科行きなのか?〜

「精神科に行く」というのは、勇気のいることだった。

 

僕は今、こちら側にいる。

 

つまり、「精神科に行ったことのない、健全な人間」。

 

一度向こう側に行ってしまえば、二度と戻ってこれないのではないか?

  

僕は「ノルウェイの森 (講談社文庫)」ノルウェイの森 (講談社文庫)に出てくる、レイコさんを思い出した。

 

 

ぼん。

 

一度壊れれば、ずっと療養所から出られない。

 

出られないだけならまだいい。療養所に入った直子は死を選んだ。

 

 

 

僕の親しい友人にも「うつ」で薬を処方してもらった人が数人いた。

 

その後、友人はみな、バッチリ復活して生活している。

 

それでも僕にとって「精神科」と聞いて、いいイメージは何一つなかった。

  

精神科に行くというのは、大きな境界線を越えていくことだった。

 

ただ、心の奥底では、自分にカウンセリングが必要なことは、わかっていた。

 

 

以前、会社を辞める前に、仕事の合間に精神科に電話をしたことがある。

 

誰に相談したらいいかわからず、グーグルの口コミを参考にしたのだった。

 

 

仕事が一段落して

「もしこれから受け付けてくれるなら行こう」と思った。

 

しかし、電話口の女性は

「前日までに予約が必要です」と淡々と答えた。

 

それは「いくらテコで動かしても絶対に動かない揺るぎのない規則」のように聞こえた。

 

 当時の僕にとって「前日までに予約を入れる」というのは、ハードルの高いことだった。

 

なんとか仕事の合間をぬって診療したかったが、なかなかそうはいかなかった。

 

 休みの日は、たまった家事をこなすことで精一杯だった。

 

 

 

当時僕は、突然襲われる動悸に苦しんでいた。

 

動悸は、仕事が忙しくなると起こった。

 

衆議院選挙で仕事が立て込んでくると、自宅に戻ってから、動悸が起こる自分と静かに戦わねばならなかった。

 

当時僕は、文字通り2人分の仕事をこなせばならなかった。

 

会社が派遣労働者を増やしたことは、間違いなく僕にもしわ寄せがきていた。

 

社会全体で起きていることが、僕の身の上でも起きていた。

 

 

そして、上司はこのことに全く無頓着だった。

 

上司たちは、その上司を見るので精一杯だった。

 

これもやはり、社会全体で起きていることだった。

 

 

年末になると、特番準備で忙しくなった。

 

家に帰れば、1歳の双子が待っていた。

 

「パパ!!パパ!!」と迫ってくるので、食事は台所で立って済ませた。

 

子どもたちが僕の食事を触れば、双子の手を洗う、着替えさせる、という

新たな家事が増えることになる。 

 

休めるのは双子が寝た後だったが、双子はよく夜泣きした。

 

双子は交互に泣いた。

 

妻の体力も限界状態が続いていたので、泣くたびに僕が抱っこしに行くしかなかった。

 

「ああ、また今日も休む時間がなくなった…」と思った。

 

夏が恋しかった。

 

泣いても抱っこ紐で子どもを抱いて外を散歩していれば、僕自身も気が紛れたし、子どももすぐに寝付いてくれた(家に戻れば起きて泣いた)。

 

冬となると、そうもいかなかった。

 

僕はいつ果てるとも知らぬ夜泣きに、戦々恐々とする日々が続いた。

 

もう泣かないでくれ!!と思っていても、通じなかった。

 

 

ようやく1人になれたと思えば、

 

激しくなる動悸と向き合うこととなった。

 

 

朝ゆっくり寝ていたくても、

 

双子が「パパ!!パパ!!」と叫びながら、僕の寝室にやってくるのだった。

 

休みは妻を休ませる必要があった。

 

 

我々夫婦は「私の方が大変だ相撲」を取り合っていた。

 

そして、一人っ子政策で〝小皇帝〟として育った妻は、強敵だった。

 

4人兄弟の3番目で

わがままが許されず育った僕を捻りつぶすことなど、

たやすいことだった。

 

ただ僕は、敢えて負ける必要があった。

 

双子のためには、母親に心の余裕を持ってもらう必要があるからだ。

 

僕は連戦連敗であることを自覚しながらも

 

休みの日の午後は、よく双子を車に乗せてドライブした。

 

寝て欲しい時に限って、双子のどちらかが寝てくれなかった。

 

僕は疲れで追い込まれても、為す術はなかった。

 

言葉を話せない子どもが

「パパどうしたの?」という目で僕を見ることもあった。

 

1歳の娘にも、僕が休めず追い込まれているのが伝わったのかも知れない。

 

彼女は僕を心配そうに見つめると、不安が高ぶり寝付けなくなるらしかった。

 

「どうか早く寝てください」という気持ちは、1歳の双子には通じなかった。

 

そうして休みは、休むことなく過ぎていった。

 

会社に戻れば、 人並み以上の仕事をしなければならなかった。

 

誰も頼る人はいなかった。

 

仕事で頼る人がいないのはあまり気にならなかったが、

 

子育てで頼る人がいないのは、きついことだった。

 

妻は僕に頼った。

 

でも、僕は頼る人がいなかった。

 

親とは絶縁していた。

 

加藤諦三氏の本(自分に気づく心理学)を読んで、

自分に気づく心理学

僕は親に対して激しい憎しみを抱いているのには気がついていたが、

この憎しみをどう処理していいのか、わからずにいた。

 

とにかく、親と距離を置く以外、方法が見つからなかった。

 

ただひたすら、記者・ディレクター業務に追われながら、

外国人の妻と双子を育てていくしかなかった。

 

僕は次第に、激しい動悸が続くのを、意識しないわけにはいかなくなかった。

 

僕は既に、精神科の領域に踏み込んでしまっている自分を、認めないわけにはいかなかった。

 

 

ただ僕の中には

「仕事を辞めさえすれば動悸は治まる」という確信があった。

 

だから、仕事の合間をぬって精神科に行くことができないのであれば、それはそれで問題のないことだった。

 

しかし。

 

しかしだった。

 

仕事を辞めてもなお、というより、むしろ動悸が激しくなってしまったのだった。