毒親に苦しむ39歳の子育て模索〜対策・解決方法はありますか?〜

子供ができたのをきっかけに、自分の親が毒親であることに気がつきました。「負の連鎖」を断ち切るため、どうしたらいいのか、悩み続けています。

「両親が嫌い」というハンデ①

37歳にもなって自分探しもない。

 

こんなこと、他の人に言えない。

 

「僕は37歳です。自分探しをしています。」

 

バカだ…

 

恥ずかしい…

 

そんなこと面と向かって言われてら、自分だったらドン引きする。

 

でも。

 

でも。

37歳の僕は、今、自分探しに必死です。

 

 

本当の自分はどこにあるのか?

 

僕は必死で探している。

 

きっかけ

あれは、2017年の6月だった。

 

ちょうど僕が、仕事が休みの日だった。

 

午後4時頃だったと思う。

 

妻が突然起き上がれなくなった。

 

腰に激痛が走ったのだ。

 

表情は激しく歪み、うめき声があがる。

 

僕は、救急車を呼んだ。

 

 

ほどなくして、サイレンの大きな音が聞こえてきて、止まった。

 

表に出ると、救急車が家の前に止まっていた。

 

見慣れたはずの救急車だったが、とても大きく見えた。

 

 

 

サイレンが鳴り響いてた後の住宅街は、いつも以上にひっそりとしていた。

 

救急車からは、男性2人と女性1人が降りてきた。

 

白衣姿だったと思う。

 

僕は、妻が横たわっている部屋に案内した。

 

隊員が起こそうとすると、妻はさけび声を上げた。

 

救急隊員はあきらめて、担架を持ってきた。

 

3人で「せーの」と声を合わせ、なんとか妻を乗せた。

 

寝ていた子供2人は、義父に任せて、僕も救急車に乗り込んだ。

 

隊員は、すぐに複数の病院とやり取りをして、搬送先の病院を決めた。

 

近所の病院だった。

 

 

特に骨にも異常がないらしく、座薬を打つと、症状は落ち着いた。

 

原因はよくわからなかった。

 

僕は勝手に「疲れ」と断定した。

 

近所に住む義理の姉に電話をして、義父を手伝ってもらった。

 

11ヶ月の双子の娘の食事も、なんとか無事、済んだようだった。

 

あすも休みをもらおうと、会社に電話した。

 

「休まれて迷惑」という態度を取られることも覚悟したが、上司はむしろ「大変だな」と同情してくれた。

 

僕は、電話しながら「黄門様の紋所」を思い出していた。

 

「救急車で運ばれた」という一言が、効いた。

 

 

夜8時頃、タクシーで自宅に戻った。

 

症状が落ち着いた、と言っても、妻は横になるしかなった。

 

あしたも大変な1日になりそうだと思った。

 

僕が家事や育児を全部することになる。

 

義姉の存在はありがたかったが、2日連続で頼る気にはなれなかった。

 

僕は、自分の母のことを思い出した。

 

でも、母にきょうのできごとを伝える気にはなれなかった。

 

会いたくなかった。

 

 

翌日もやはり、妻は腰が痛くて起き上がれなかった。

 

妻がゆっくり休めるように、僕は双子を外に連れ出した。

 

 

家に戻ると、双子を庭で遊ばせた。

 

妻は、夕方になってなんとか起き上がった。

 

ちょうどそのときだった。

 

母が来た。

 

義理の姉が、妻が倒れたことを伝えたらしかった。

 

母が家に入り込んできた時、妻がちょうど起き上がっていたところだった。

 

そして母は拍子抜けしたように言った。

 

「な〜んだ。大丈夫じゃん」

 

妻の体調への興味はゼロになったようだった。

 

そして母は、庭で遊んでいた双子の娘に会おうと外に出た。

 

会うのは一体いつぶりだろうか。

 

母が双子に突然近づいていったものだから

双子は、怯えた表情を見せた。

 

双子にとって私の母は、もはや「知らない人」なのだ。

 

母は、そんなことには気付いていないようだった。

 

気付いたとしても、相手のネガティブな感情など、気にかけない人間でもあった。

 

母は、双子のうちの、私に似ているほうに目をかけていた。

 

しかし、彼女は双子を間違えた。

 

「えっ?頭の小さい方じゃないの??」と言った。

 

 

自分の孫なのに、双子の顔を見間違えるくらい、久しぶりだった。

 

許せなかった。

 

露骨なえこひいきに吐き気がするほど嫌な思いがしていた。

判別する理由もどこか、差別的だった。

 

双子を見間違えるほど面倒を見ようとしない母が、憎くて仕方がなかった。

 

僕は、湧き上がってきた怒りを抑えようとは思わなかった。

 

サイレンが住宅街に鳴り響いた翌日、怒号が響いた。

 

 

母が家に戻った後、たくさんのラインがきた。

 

「ばかやろう!!」

「親に怒鳴るとは何事だ!!」

 

腰が痛くてしょうがない妻にも、ラインがきた

「関係を修復するよう、しっかりやってください」

 

「子供の写真だけは送るように」

 

 

火に油を注ぐようなものばかりだった。

 

僕の怒りはさらに膨らんだ。

 

そして絶望が広がった。

 

僕は、こんなにも無神経で、相手の痛みに想いを寄せることのできない人間に、一体どれくらい支配されてきたのだろうか?

 

母は、

「なんで怒鳴られるのかわけがわからない」とも送ってきた。

 

僕はその理由を伝えたいとは思わなかった。

 

伝えたところで、母は正面から僕の想いを受け止める、ということは絶対にしないだろう。

 

伝えたら、絶望がさらに大きくなるだけだ。

 

 

伝えなければ僕の怒りは僕の中にしこりとして残ったまま。

 

伝えれば、さらに大きな絶望感に覆われる。

 

どうすることもできなかった。 

 

どんな状況であれ、僕には双子の子供がいて、僕は父だった。

 

僕は、家庭を築く責任があった。

 

でも、手本とすべき家庭はなかった。

 

とりあえず僕は、自分の怒りの原因を分析することから始めることにした。

 

続く