毒親に苦しむ39歳の子育て模索〜対策・解決方法はありますか?〜

子供ができたのをきっかけに、自分の親が毒親であることに気がつきました。「負の連鎖」を断ち切るため、どうしたらいいのか、悩み続けています。

心理カウンセリング④〜高校時代を振り返る〜

3回目のカウンセリングに行った。

 

 

この数日前、高校の同級生たちとの飲み会があった。

 

ずっと集まっていなかったが、僕とNがそれぞれ会社を辞めて独立する、ということで、門出を祝おう、という趣旨らしかった。 

 

ただ、Nは既に事業を始めている一方で、僕は完全失業者状態。

 

「なんとかなる」などと気丈に振るまっているものの、実際は先が見えていない。

 

不安になるから、敢えて何も考えない、だから何も進まない、という悪循環。

 

でも、この悪循環から抜け出す気力もなく、会社を辞めてもう4ヶ月も経つ。

 

悪循環の遠心力がだんだん強くなってきて、抜け出せなくなってきた感さえある。

 

そんな状態で古い友人に囲まれても、あまり楽しい気持ちにはなれない、というのが正直なところ。

 

山形は本当に狭い社会。

 

彼らには教えていないはずなのに、僕が両親と絶縁していることも知っている。

 

彼らは平気で

「親は親。早く仲直りしなさい」などと忠告してくる。

 

悪気がないのはわかっている。

 

でも、古い友達とはいえ、土足で家族関係に踏み込むようなことはしてほしくない。

 

それでも、気の置けない友人との久しぶりの席で、酒が進む。

 

僕もついつい本音を吐き出してしまう。

 

「なんで俺が高校の頃から哲学の本なんか読んでるかやっとわかった。」

と僕は切り出した。

 

彼らにとって

僕=哲学、だったのだ。

 

「親に愛されていなかったから。愛情を受けていれば『なぜ生まれてきたのか?』なんてことに悩んで哲学書ソフィーの世界)を開く必要なんかない」

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

 

 

そうして気づけば、僕は高校時代の自分に戻っていた。

 

高校を卒業して身につけてきた「ふるまい」を自ら脱ぎ捨て、本音を吐き出していた。

 

それから数日、僕はきつかった。

 

たった2度のカウンセリングでも、自分にいい変化があったのがわかった。

 

しかし、この飲み会の後は、なんだか、以前のあまり好きでない自分に戻ったような感じがした。

 

 

カウンセリングでその話をすると、

「揺さぶられた、ということですね」と言われた。

 

なるほど。その通り。

 

揺さぶられた、というやつです。

 

そして

「高校の頃の自分は好きでないのですか?」と聞かれた。

 

意外な質問だった。

 

高校の頃の自分を好きか?など、考えたこともなかった。

 

僕はじっと考えてみた。

 

カウンセリングでは「うまく話す」必要もない。

 

思いつくままに話してみる。

 

「高校のときは本当にきつかったです。勉強も部活もついていくのが精一杯で本当にきつかった…」

 

と話した時だった。

 

なぜか涙が出てきて、さめざめと泣いてしまった。

 

なぜだ??

 

なぜこんなことで泣く??

 

自分でもよくわからなかった。

 

ただわかっているのは、高校生活は、本当に本当にきつかった、ということ。

 

僕は一人、左沢線に揺られ学校に通った。

 

学校に着く頃には疲れ果てていた。

 

寒河江山形市なんて、何も変わらないと思っていたけど、そうじゃなかった。

 

文化が違った。

 

寒河江市山形市だけの違いならまだしも、山形市にはいろんなところから人が集まってきていた。

 

新庄の言葉が違うのは知っていたが、上山も方言が違うのは、驚きだった。

 

しかし、毎日上山の方言を聞くと、それはそれでストレスだった。

 

僕はここで「カルチャーショックはストレス」なのだとわかった。

 

最初のテストは、320人中310番だった。

 

僕は、どうしたらいいかわらかない泥沼をはえずり回っている気がした。

 

果てしない泥沼だった。

 

抜け出すには勉強をするしかなかったのだが、その多くが、苦痛なものでしかなかった。

 

無心に勉強を続けられる同級生を眺めていると、宇宙人に見えた。

 

 

決定的なのは、気のおける友達がいなかったことだ。

 

中学時代の親友は、寒河江高校を選んだ。

 

僕は、文化の違う世界で一人、戸惑っていた。

 

同じ左沢線で通う中山町の友人たちとは、全く話が合わなかった。

 

文化の違いに戸惑った。

 

彼らと一緒に帰ると、余計ストレスがたまった。

 

家に帰っても、いつも思いつめた表情をしていたのだろう。

 

母は僕に対し 

「もっと話をしろ」と言った。

 

母は母なりに、僕のことを心配しているようだった。

 

でも僕は「絶対にお前なんかに話すものか」と思っていた。

 

母はそれまで、僕の要求をあまりに無視し続けてきた。

 

僕にとって既に、遠い存在だった。

 

自分の話をするような相手ではなかった。

 

あまりに寡黙を貫く私に、母は戸惑っていた。

 

母は

「『お父さんにお前(次男)が喋らないんだ』と相談したら『男はそんなもんだ。気にするな。長男がヘラヘラ喋りすぎるだけだ』というんだ」と言った。

 

母は、父のその意見には納得できていない、という感じだった。

 

父は、次男(私)の理解という点では、壊滅的だった。

 

父は、恐らく、ものすごく幼稚な人間だったのだ。

 

人を見る尺度が、あまりに小さい。

 

 

一方で、母はそれでも私を理解しようとしていたのだろう。

 

「私に言えないなら、友達に電話しろ」と言った。「人間は吐き出さないとダメだ」

 

そのアドバイスがあってかどうかは覚えていないが、僕は実際、中学の親友・Kに電話した。

 

彼も寒河江高校で勉強についていけず(予習をやる気になれず)苦労していた。

 

話していくうちに、僕たちの声は沈んでいった。

 

彼と話すのは、自分にとって慰めになったのか、それとも改めて泥沼から抜け出せない自分に苛立ちを募らせることになったのか、わからなかった。

 

「なぜ僕の友人は皆、勉強をしたがらないのだろう?」という未解決の疑問が増えただけのような気もした。

 

 

我々の勉強への意欲は、父の僕への理解並みに、壊滅的だった。

 

 

高校の友人と会うと、こうした自分が甦るのだろう。

 

飲んでいるうちに、なんだか、型の合わない靴で歩いているような気がしてきた。

 

不快な気持ちだった。

 

ただ、元投手が

「お前の影響すごい受けた。もっともっと話したい」と何度も何度も繰り返し言ってきた。

 

僕は男子校だったが、なんというか「もてた」。

 

僕には一定のファンがいた。

 

一方で僕は、自分が思っていた以上に、高校時代の自分は、つらい思いをしていた。

 

この矛盾をどう受け止めるべきなのか。

 

つらい思いにひたすら耐えながら現実に向き合っているひたむきさに、惹かれた人がいたということだろうか。 

 

考察は続く